BALENCIAGA バレンシアガ
バレンシアガの歴史「モード界の革命と新しい世代」
老舗ブランドには過去から現在まで幾つもの足跡が
バレンシアガの歴史というのは、クリスチャン・ディオールやココ・シャネルといった稀代のスターデザイナーからも尊敬を集めたクリストバル・バレンシアガの時代から、低迷期を経てルイ・ヴィトンでマーク・ジェイコブスの後を継いだ天才ニコラ・ジェスキエール、そしてアレキサンダー・ワンといった超一流デザイナーまで実に多才なクリエイティブを秘めています。
伝説的なブランドとまで言われるバレンシアガ(BALENCIAGA)。
その歴史はどのように現代まで続いてきたのか?
時代を追いながら迫ってみたいと思います。
世界を魅了したバレンシアガのスタイル
バレンシアガの設立は、1919年にクリストフ・バレンシアガがスペインのサン・セバスチャンに最初の店を開いたことから始まります。
この最初の店舗からすでにスペイン王家の御用達となるほどバレンシアガの名声は高まっていました。
1933年にはマドリードに、そして1935年にはバルセロナに店をオープンし、スペインに3店舗を構えるまでになります。しかし、戦争によって店舗は閉鎖、パリに移り、ジョルジュ・サンク通りに店を開き、初のパリ・コレクションを開いたのが大きな転機になったのです。
元々スペイン時代からバレンシアガの名声というのは広まってはいましたが、このコレクションによってパリのバイヤーから一気に注目を浴び、ファッション業界で大きな話題を呼んだのです。
パリの店舗をオープンした翌年にはスペインの店も再開したのですが、店舗を閉めていた数ヶ月の間にもバレンシアガの名声は全く衰えることはなく、それどころか逆に上がっているくらいでした。
1946年には、最初の香水である「ル・ディス(Le Dix)」を発表します。これは最初のアトリエの住所がジョルジュ・サンク・アベニュー10番地であったことから名付けられました。
香水に関してもオートクチュールコレクションと同様に高い評価を獲得します。
翌年にはクリスチャン・ディオールが「ニュー・ルック」を発表します。
ディオールのニュールックは世の中に一大センセーションを巻き起こすほどになりましたが、そんな中でもバレンシアガの名声を脅かすことはありませんでした。
というのもディオール自身がバレンシアガを崇拝し、「われわれ全員の師」と呼んだほどで、ニュールックでさえもバレンシアガのシンプルで簡潔な構成がその前身にあったのです。
(出典:http://flungmagazine.com/)
この1940年代から50年代にかけては数々の新しいスタイルを打ち出し、襟なしの上着、バルーンドレス、腰回りのゆるいスーツ、キャミソール、体のラインにピッタリ沿ったイブニングドレス、シンプルを追求したサックドレス、チュニックラインなどモードの革命と呼ぶにふさわしい魅惑的なコレクションを発表し続けました。
1960年代に入ると他の追随をゆるさない高い技術は芸術の域に入り、モードの世界でバレンシアガに並ぶものはいないといほどになります。
クレージュ、エマニュエル・ウンガロ、フレデリック・カステットといった人物もバレンシアガの元で育っていきました。
支柱を失いブランドの価値は地に落ちる
(最後にデザインしたエールフランス航空の制服)
しかし、時代の流れというものは残酷です。
1968年、フランス5月革命が起こった年、バレンシアガはもはや贅沢や優雅というものに居場所がないということを実感し、この年のコレクションが彼の最後のコレクションとなりました。
さすがにこの時すでに74歳になっており、「プレタポルテを始めるには年をとりすぎた」という名言を残し、オートクチュールから引退しました。
そして、スペインの3店舗と他の店も全て閉鎖することになります。
このバレンシアガの閉鎖というのは、ファッション業界で「モードが完全に変わる」と言われるほどとても大きなインパクトのあるものでした。
その後1972年にクリストバル・バレンシアガはスペインのハベアでその生涯を閉じることになります。
「クチュール界の建築家」とも呼ばれ、「全てを1人でこなすことのできる唯一のクチュリエ」であったクリストバル・バレンシアガの引退によって、バレンシアガというブランドは倒産の危機に追い込まれます。
バレンシアガの死後はジャック・ボガートによって所有されることになり、1986年までは香水ブランドとして存続し、プレタポルテが1987年にスタートすることになりました。
1992年からジョセフュス・メルキオール・ティミスター(Josephus Melchior Thimister)がデザイナーとなりましたが、あまり評判はよくなくバレンシアガは勝手の栄光から完全に凋落していったのです。
こんな状態を救ったのが若き天才デザイナーでした。
たった一人の若き天才によって華麗に復活
そのデザイナーというのはルイ・ヴィトンでマーク・ジェイコブスの後任という大役を務めるニコラ・ジェスキエール。
ジェスキエールは1995年にライセンス・デザイナーとしてバレンシアガに入社し、その2年後、ジョセフュスがひどいコレクションを発表して辞任した後、わずか26歳という若さでクリエイティブ・ディレクターに就任したのです。
ニコラ・ジェスキエールによってバレンシアガはこれまでの低迷から息を吹き返し、新しいブランドへと生まれ変わりました。
ニコラのファースト・コレクションとなった1998春夏コレクションでは、新生バレンシアガを強烈に印象づけ、その後も毎シーズン新しいスタイルを提案します。
2000年にはVHI・ヴォーグファッション・アワードで「アバンギャルド・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を獲得し、2001年のCFDAのインター・ナショナル・デザイン・アワード、ウーマンズ・ウェア・オブ・ザ・イヤーを受賞するに至ります。
わずか26歳でバレンシアガという伝説のブランドを指揮する立場となり、その重責を果たし見事にブランドを復活へと導いたのです。
ブランド飛躍に一役買ったグッチの買収
(出典:http://www.balenciaga.com/)
そして、バレンシアガにとってさらに新しい展開が待っていました。
ニコラ・ジェスキエールの才能に目をつけたグッチグループのドメニコ・デ・ソーレは、2001年にバレンシアガを買収したのです。
これによってバレンシアガはグッチグループの中の独立したブランドとなりました。
グッチグループというとイヴ・サンローランを皮切りにセルジオ・ロッシやブシュロン、ボッテガ・ヴェネタといったブランドやアレキサンダー・マックイーン、ステラ・マッカートニーなどの新興・ブランドなど数々のブランドを買収し、一大ブランドコングロマリットを形成する最中にあったのです。
この買収はドメニコ・デ・ソーレがニコラ・ジェスキエールの才能に目をつけたものとされ、もちろんバレンシアガのブランドとしての歴史的価値もあったとは思いますが、それ以上にどうしても欲しい才能がニコラだったのです。
ニコラ自身も買収を望んでいたとされています。
その理由はグッチグループがバレンシアガを買収した後に取った戦略に現れています。
バレンシアガのフラッグシップ店を世界の主要都市に展開していくと発表したのです。
ニコラは、バレンシアガのブランドとしての投資が足りないと思っていたので、グッチグループに買収されることによって資金面での余裕により世界に展開できることは願ってもないチャンスだったというわけです。
こうして一度は死にかけたバレンシアガというブランドは完全に勢いを取り戻し、プレタポルテラインからバッグや靴、メンズウェアなど商品ラインナップも拡充していきます。
ターゲットは日本、そしてブランド価値の展開
(出典:http://www.balenciaga.com/)
日本での展開はリステアグループが輸入販売を行っていましたが、2006年に正式にバレンシアガ・ジャパンとしてリステアグループとグッチグループの共同出資によって設立されました。
その当時には日本での売上を世界全体の1/4まで引き上げるとという目標を掲げ、2007年の阪急梅田、西武渋谷、新宿高島屋、大丸神戸、名古屋三越など続々とショップをオープンしました。
その後、バレンシアガ・ジャパンは、グッチグループが全ての権利を取得し、現在ではケリング・ジャパンによって運営されています。(ケリングは旧PPRでケリングのラグジュアリーブランド部門をグッチグループと呼ぶことが多い)
日本でもバレンシアガは人気のブランドですが、こうした日本展開の加速によって一気に勢いづいたところがあります。
日本展開のあと、アイウェアのライセンス契約をSafiloと締結し、Cotyとはフレグランスのライセンス契約を締結するなどプレタポルテから始まった新生バレンシアガはバッグ、靴からさらなる飛躍を遂げるためのブランド展開を推し進めました。
世代交代・・・その後
(出典:http://www.balenciaga.com/ 左:クリストバル・バレンシアガ、右:デムナ・ヴァザリア)
日本での展開はリステアグループが輸入販売を行っていましたが、2006年に正式にバレンシアガ・ジャパンとしてリステアグループとグッチグループの共同出資によって設立されました。
ニコラ・ジェスキエールは1997年よりブランドのクリエイティブ・ディレクターとしてバレンシアガを牽引し、その価値を再び世界のトップブランドへと押し戻しましたが、そんなニコラも退任する時が訪れます。
ニコラ・ジェスキエールは15年という長きに渡り、その歴史をともにしたバレンシアガを2012年末に去り、新天地としてルイ・ヴィトンで新しいスタートをきることになりました。
そのニコラの後任として白羽の矢が立ったのが、アジア人として初のクリエイティブ・ディレクターになったアレキサンダー・ワン。
自身のブランドを立ち上げ、ニューヨークファッション・ウィークでもハイライトされるほど人気のあるアレキサンダー・ワンですが、バレンシアガでの評価はあまり高くなく最初の契約期間の更新が行われず、わずか2年で退任にとなってしまいました。
その後はヴェトモンのヘッドデザイナーであるデムナ・ヴァザリア(Demna Gvasalia)が就任。
2014年にスタートしたヴェトモンでの人気、そして過去にはマルタン・マルジェラやルイ・ヴィトンでのウィメンズのデザインを手がけたデムナにバレンシアガをどう変革するのか期待が集まります。
2015年の就任からわずか数年の間で、バレンシアガがストリートの中心に位置するブランドへと変貌させたというのは驚くべきことです。
メゾンブランドとして100年以上の歴史を持つブランドが、なんと若者からはストリートブランドと認識される状況になっているのです。
デムナの就任によって、その独自の世界観をバレンシアガというメゾンに融合させ、大きなトレンドにもなっているラグジュアリーストリートの中でまさにその最前線にいるブランドとなりました。
この記事を監修しているのは?
ラグジュアリーブランド・ハイファッション調査部門
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