CHANEL シャネル
シャネルの歴史「ココとカール、それから・・」
シャネルは2人のデザイナーから成り立っている
シャネルの歴史を語ろうとするときには、大きく分けて2つの時代を語る必要があるでしょう。
ひとつは、ココ・シャネルの生存していた時代、そしてもうひとつは、ココ・シャネル亡き後、ヴェルタイマー一族がシャネルを指揮し、デザイナーとしてカール・ラガーフェルドがココの後を引き継いだ後の時代である。
シャネルの始まり
(出典:http://www.chanel.com/)
シャネルの歴史というのは、1910年に創業者であるココ・シャネルがパリで始めた帽子屋が起源です。
ココ・シャネルという人物はかなり数奇な人生を歩んだ女性デザイナーであり、実業家でもあったため、その人物像としても大変興味深いものがあり、映画や書籍なども数々の公開がされています。
立ち上げ当初は当然ですが、資本があるはずもなく、時代も時代ですので手工業的な展開にとどまっていましたが、1921年にシャネルの5番として今でも人気となっている伝説的な香水「No.5」生み出し、ビジネスとして発展していきます。
しかし、如何せん手工業では限界があるので、ここで手を組んだのがピエール・ヴェルタイマーでした。
パリの有名百貨店「ギャラリー・ラファイエット」の創業者であるテオフィル・ベイダーの紹介で知り合ったのですが、この出会いが後にシャネルの事業を引き継ぐことになるヴェルタイマー一族との最初のコンタクトです。
ピエールは、フランス最大の香水、化粧品企業のオーナーだったため、資本力もあり、生産や流通ノウハウも持っていました。このピエールの支援をうけて1924年にシャネル香水会社を立ち上げたのです。
その後、ヴェルタイマーが自社の化粧品をシャネルブランドで販売し始めたことにココ・シャネルが怒り、シャネル香水会社を辞任にするという形で軋轢があり、この和解までには相当な時間がかかっています。
こうしたいざこざはありながらも、シャネルは香水以外にも本来のクチュリエの仕事として「リトルブラックドレス(LBD)」や「シャネルスーツ」といったシャネルの象徴ともなるような人気アイテムを生み出していき、その名声を高めていくのです。
パリのシャネルとアメリカのシャネル
(出典:http://www.chanel.com/)
第2次世界大戦の勃発により、ココ・シャネルは香水とアクセサリー部門を残してパリのブティックを閉鎖せざるを得ませんでしたが、戦乱中もココはパリにとどまり、ヨーロッパにシャネルの香水を販売していました。
一方でアメリカに逃れたヴェルタイマーはアメリカでシャネルブランドの香水を販売していました。
第2次世界対戦中のこの時代というのは、2つのシャネルがアメリカとヨーロッパに存在していたことになります。
こうした状態がココ・シャネルとピエール・ヴェルタイマーの溝を一層深くする事にもなりました。
感情論から見れば、ココ・シャネル側が正当なシャネルだと思うところもありますが、実際のシャネルのブランドという観点で見るとヴェルタイマーはシャネル香水会社の株式の大半を持っているわけで正当なシャネルブランドはどちらかと言われるととても難しいところでしょう。
ただ、香水「No.5」の原料となるジャスミンや薔薇のエッセンス、レシピを戦時中のグラース地方からアメリカに退避したのはピエール・ヴェルタイマーであり、これがなければシャネル自体がなくなっていたかもしれないし、アメリカでのシャネルブランドの拡大にも大きく貢献したことは間違いありません。
そして、No.5の普及によってアメリカでの地盤が確立していたことにより、ココが1954年にコレクションを復活させた際のブレイクの一因になっていることもまた確かでしょう。
和解そして、クチュールの復活
(出典:http://www.chanel.com/)
第2次世界大戦が終了し、1954年にはココはパリのブティックを再開します。
このブティックの再開にあたり、なんとピエール・ヴェルタイマーからの支援を受けているのです。
ピエールからしてみれば、ココのクチュールの復活によって香水事業に対してポジティブな影響があるという算段もあったのですが、とはいえ敵対していた2人が歩み寄ったことによってシャネルというブランドが大きく軌道に乗り始めます。
この時に運が良かったのが、マリリン・モンローが「寝るときにつけるのはシャネルの5番だけ」という発言があったり、故ジョン・F・ケネディ元大統領が暗殺された際に妻であるジャクリーン・ケネディの着ていた服がシャネルのピンクのスーツであったりと想定していないメディア効果があり、シャネルの露出が飛躍的に高まったのです。
アメリカにおけるシャネルの人気は爆発し、「シャネルルック」として定着していきます。
ココ・シャネルの復活によってブランドの名声が高まったことに喜んだヴェルタイマーとは、完全に和解することになります。
この復活以降、ココはシャネルのアイコンともなっている「チェーンベルトバッグ」や「バイカラーシューズ」といった名作を次々と生み出していき、1971年に87歳でその生涯を終えました。
そして、ココ亡き後のシャネルはヴェルタイマー一族が100%の権利を所有する企業になったのです。
ルイ・ヴィトンやエルメスなど一貫した歴史を築いているブランドは創業者一族が経営を続けているのですが、シャネルにおいてはココ・シャネルが天涯孤独であったため、こうした創業者とは全く違う一族が実権を握るということになっているのです。
ただ、このココ・シャネルの魂は次の世代に受け継がれていきます。
それが、カール・ラガーフェルドという天才デザイナーです。
ココ・シャネル亡き後の空白期間「凋落」
(出典:http://www.chanel.com/)
ココ・シャネル亡き後、カール・ラガーフェルドという天才デザイナーがシャネルのデザインを一手に引き受けることになるのですが、ココが1971年に亡くなってからカールがアーティスティック・ディレクターに就任する1983年までの間に空白期間が存在します。
この空白期間というのは、シャネルにとってはあまりいい時代ではありません。
ピエール・ヴェルタイマーはココが亡くなる6年前の1965年にはすでに他界しており、その後を継いだのが息子のジャックでした。
ジャックは、あまりシャネルのビジネスには興味がなくラグジュアリーブランドとしてのシャネルのイメージを守るということを全く行わなかったのです。
経営者がこうした体たらくを見せていたため、シャネルのブランドイメージはどんどんと落ちていき、アメリカで絶大な人気を誇り、アイコンともなっている香水「No.5」でさえも2流の古くさいものだと思われるようになったのです。
ココ・シャネル亡き後の空白期間「立て直し」
(出典:http://www.chanel.com/)
こんな状態を覆したのが、ジャックの息子アラン・ヴェルタイマーです。
アランはシャネルブランドの危機的な状況に対して、1975年に自らがジャックの後を継ぎ、シャネルブランドの再生に乗り出しました。
まずは「No.5」のドラッグストアからの撤去です。管理できない流通網には商品を流さないといのはラグジュアリーブランドの基本です。こうした基本的な対策とともに多額の広告費を投じてブランドイメージの復興も行ったのです。
そして、この時期に化粧品事業やプレタポルテ事業にも乗り出したのです。
アランの活躍のおかげで、ココ亡き後のシャネル凋落の危機をなんとか踏みとどまったのです。
皇帝「カール・ラガーフェルド」によるシャネルの隆盛
(出典:http://www.chanel.com/)
カール・ラガーフェルドという人物は、ピエール・バルマンやジャン・パトゥといったオートクチュールメゾンで仕事をした後、クロエ、フェンディと渡り歩き、そして1983年にシャネルのアーティスティック・ディレクターに就任しました。
いくらか持ち直してきていたとはいえ、カールがシャネルに就任した時にはシャネルというブランドはまだまだ過去の栄光にすがっているような状態でした。
こんな状態のシャネルに対して、カールはシャネルというブランドを利用して全く新しい価値を生み出そうとしたわけではなく、ココ・シャネルを再生することを試みたのです。
悪いのはブランディングであってココ・シャネルの魂ではありません。
カールは当初は、オートクチュールのデザインを担当しました。(すぐにプレタポルテやアクセサリーも担当するようになるが)
カールの生み出すオートクチュールの超高級シャネル・スーツをモナコのキャロライン王妃やヨルダンの王女、イヴァナ・トランプといった世界中の女性が憧れるようなセレブリティが愛用することによって、名声や価値がブランドイメージへと波及していきました。
オートクチュールで得た名声によって、香水、革製品やアクセサリー、化粧品といったシャネルのポートフォリオにとてもよい影響を与え、シャネルは香水のトップブランドへと返り咲いたのです。
こうした成功があって、時計や靴、コスメ、アクセサリーなどの新しい製品ラインを拡充していくことにもつながりました。今私達が知っているシャネルは1980年代から90年代のカールとアラン・ヴェルタイマーによって作られたということです。
アランはカールを心から信頼しており、カールのやりたいようにやれるように全てを任せています。
だから、ビジネスとして成り立たないように見える試みであっても長期的視点にたって実践することが出来るのです。
経営者とデザイナーの絶対的な信頼関係があってこそ、挑戦的・革新的な取り組みを実行できる基盤が醸成され、皆が憧れるシャネルというブランドが形成されていったと言えます。
カール就任当初の「シャネルは死んだ」と思われていた状態から、ブランドを作り直すのではなく再生するという未だ誰も成しえてこなかった偉業をカール・ラガーフェルドは成し遂げたのです。
そして、カールはモード界の皇帝と呼ばれる存在になり、シャネルの今を力強く牽引していったのです。
カール・ラガーフェルド亡き後・・
(出典:http://www.chanel.com/)
2019年2月にココ・シャネルの遺志を継ぎ、すでに終わったと思われたシャネルを立て直した皇帝カール・ラガーフェルドがこの世を去りました。
しかし、カール・ラガーフェルドの跡を継いだのはヴィルジニー・ヴィアール。
彼女はココ・シャネルの後では初の女性アーティスティック・ディレクターとなり、オートクチュールとプレタポルテ、アクセサリーを統括することとなりました。
ヴィルジニーは、シャネル一筋というかカール・ラガーフェルド一筋のデザイアーでインターンとしてシャネルに加わった後に刺繍部門を任され、その後カールと一緒にクロエに移籍し、さらにシャネルに戻ってきました。
あのカール・ラガーフェルドに「自分の右腕もあり、左腕でもある」と言われるほどの関係でカールの後を見事に引き継ぎました。
ハイブランドの世界では100年以上続くブランドというのは決して珍しくありません。
その一方で、創業者の圧倒的な影響力がなくなると同時にブランドが力を失い消えていくこともまた珍しくありません。
長く続くブランドというのは、シャネルのように過去から未来へ新しい才能へとその意志が受け継がれ、そして進化を遂げていくブランドなのです。
この記事を監修しているのは?
ラグジュアリーブランド・ハイファッション調査部門
このブランドを見た人はこんなブランドも見ています
中古・古着でシャネルを格安購入
1 | SNKRDUNK スニーカーダンク |
ハイブランドを売りたい人と買いたい人をマッチングしてくれる新しいサービスの形態!安心の真贋鑑定を兼ね備え、煩わしいやり取りのいらない次世代のフリマアプリでお得にハイブランドをゲットしよう! | |
SNKRDUNKでシャネルを探す |
2 | セカンドストリート 2nd Street |
取り扱い商品が100満点規模にも登る古着アイテムが常識外れの格安プライスで販売中!オンライン試着や店舗お取り寄せなど大手ならではの充実のサービスで安心・快適なショッピング体験を! | |
セカンドストリートでシャネルを探す |
シャネルを海外から直接購入
1 | アメイジングサーカス Amazing Circus |
海外正規店で購入した商品を日本で販売する並行輸入。直営店のようにブランドからの指示を受けるわけではないので、値引きもセールも出来るため新品が直営店の半額以下になることも珍しくありません。 | |
アメイジングサーカスでシャネルを探す |
2 | Farfetch.com ファーフェッチ |
海外セレクトショップから直接購入で日本にいながらあたかも海外旅行中の格安価格でブランド品が買える。関税手続きや日本語サポートなど面倒な手続きは全てFarfetchが代行してくれるので楽ちんです。BUYMAなどの仕入れにも使われるファッション業界の黒船! | |
Farfetch.comでシャネルを探す |
販売アイテムの紹介
Supported by 楽天ウェブサービス
商品情報の提供は楽天ウェブサービスを使用して、楽天商品情報を表示しています。