Giorgio Armani ジョルジオ・アルマーニ
アルマーニの歴史「遅咲きの創業から世界制覇」
鋭い美的感覚を発揮していた少年時代
ジョルジオ・アルマーニはちょうど第2次世界大戦へと突入する間近の1934年イタリア北部のピアチェンツァに生まれました。
ジョルジオが生まれたときには亡くなっていた姉のシルヴァーナ、そして兄のセルジオ、妹のロザンナという兄妹があり、ロザンナは後にジョルジオと共に働くことになります。
戦時中であったため、それほど裕福な暮らしができるわけではなく、幼少期のアルマーニの唯一と言っていいほどの楽しみは映画でした。この映画が彼の豊かなイメージを育む手段にもなってました。
ジョルジオは母親からもっとも影響を受けていました。
しつけにも厳しく、子どもたちを甘やかさなかった母親ですが、戦時中の物のない時代にも軍服やパラシュート生地のコロニアルをうまく使って兄妹の服を作っていました。
こうした母親の作った服や父親がファシスト党員だった影響からきていた制服などがアルマーニファッションの原点になっているのです。
高校時代のジョルジオもまだファッション業界への道というものは見えていませんでしたが、当時から明らかに他の生徒とは違う美意識を持っていました。
他の生徒が親から見繕ってもらった服を着ているときに、折り返しのないズボンやカットソーを着ていて、さらに行きつけのテーラーまであったのです。
こうした美的感覚の片鱗を見せていたにも関わらず、少年アルマーニが志した道は医学でした。
この頃の閉鎖的な環境では、医者か弁護士というのが相場だったため進むべき道としては妥当だったかもしれません。
しかし、アルマーニは3年のときに退学し、進むべき道が見つからない彼は、とりあえず兵役につくことにしました。
ファッション業界へは小さなきっかけから
アルマーニはファッション業界とは縁遠い道を歩んでいました。
そんなアルマーニがファッションへの道を歩みだしたのは、本当に偶然の産物なのです。
兵役中は休暇のたびに職探しをしており、幼馴染にその悩みを打ち明けるとミラノの大手百貨店リナシェンテで人材を募集していることを教えてくれました。
このチャンスを活かして1957年に兵役を終えリナシェンテに入社することなったのです。
リナシェンテというと今でこそファッションを発信するような有名デパートですが、当時はまだ物を売るだけの普通の百貨店でした。
そんなリナシェンテがちょうど生まれ変わろうとしていたタイミングでアルマーニが入ったというのはとても運の良いことだったのです。
アルマーニはリナシェンテで多くの仕事をこなします。
建築家ジャンカルロ・オルテッリのアシスタントとして、ショーウインドウのデコレーション、紳士服の買い付け、写真家のアシスタントなど多岐にわたります。
アルマーニがもっともその才覚を発揮したのが、紳士服の買い付けでロンドンから輸入したツイードジャケットとコーディネートするベストです。
こうした仕事を通じてアルマーニは徐々にその才能を開花させていきました。
デザイナーとしてキャリアの第一歩
ジョルジオ・アルマーニのデザイナーとしての最初のキャリアは、ニノ・セルッティの新しく開いたブランド「ヒットマン」でした。
リナシェンテの広報部長だったアドリアーナ・ボッティの紹介でヒットマンのアシスタントを探していたニノ・セルッティに紹介され、当時紳士服のプレタポルテという新しい試みに挑戦しようとしていたヒットマンのメンズウェアのデザインに携わることになります。
このヒットマンでアルマーニのスタイルであるスーツの内部構造を取り払ったソフトで着心地のいいジャケットを提案し、フォーマルなスーツのイメージを根底から覆すことに成功したのです。
さらに広告キャンペーンでもこれまでにない斬新な試みを試しました。
服もモデルの顔すらも写っていない「ヒットマン・バイ・アルマーニ」。
結果的には大成功を収めた広告キャンペーンでしたが、もちろん批判もされました。しかし、新しいことを一から考え出すという必要がこの時代にはあったのです。
そもそもファッションデザイナーという言葉すら存在していない時代のことで、ファッションデザイナーという言葉を使いだしのがアルマーニを紹介するときのニノ・セルッティだったのですから。
ヒットマン時代にはモンテドーロやシコンズといった他のブランドのコレクションもデザインし、大成功を収めていましたし、今ではモードファッション誌としてはトップのヴォーグ創刊初期に当時は編集者だったジゼッラ・ボリオーリとともに掲載アイテムを選ぶなど様々な活躍をしていたのです。
このヒットマンで働いた8年というのはジョルジオ・アルマーニという人間を形成する上でとても大きな意味合いを持っていました。
しかし、ここまではまだジョルジオ・アルマーニというブランドが出来るまでの話であり、本当の冒険はこれから始まるのです。
運命の出会いによって誕生したブランド
ジョルジオ・アルマーニの設立に関してはある1人の人物が大きな役割を担いました。
それはセルジオ・ガレオッティ。
やがて公私共にパートナーとなり、ジョルジオ・アルマーニのデザイン以外の仕事をすべて引き受ける人物である。
アルマーニは8年間をヒットマンで過ごし、すでにヒットマンで表現できることに限界を感じていました。
そこにガレオッティが現れ、強烈な熱意と説得によってセルッティのもとを離れ、ミラノに小さなオフィスを構えるに至ったのです。
創業当初から役割分担は明確でガレオッティはマネジメント全般の一切を取り仕切り、アルマーニがデザインやクリエイティブな仕事に没頭するという構図です。
ただ、創業後しばらくはヒットマンのデザインも続けていたし、モンテドーロやシコンズ、ウンガロ、エルメネジルド・ゼニア、バグッタ、またロエベのデザインなども引き受けていたのです。
ジョルジオ・アルマーニを創業した1975年に開いた最初のメンズコレクション。
ヒットマンですでに名声を築いていたアルマーニのコレクションは大成功を収め、さらにその3ヶ月後の初のレディースコレクションでは男女の枠を超えたユニセックスなレディースウェアを発表し、アルマーニの性別を超えた独自のスタイルの原点を垣間見せました。
この当時イタリアのモードはフランスに比べてはるかに遅れていました。
しかし、そんなイタリアンモードをいち早く受け入れたのは、アーティストや建築家、俳優といったファッションの先端を行く人たちだったのです。
これまでのメンズウェアで当たり前だった堅苦しさを取り除き、着やすさやゆるいエレガンスを提唱し、新たなファッションスタイルが確立されていったのです。
アルマーニは最初のコレクション発表当初より大評判となり、わずか1年後には資本金1000万リラだったのが、56倍の5億6000万リラまで急成長を果たしました。
アメリカ進出で急拡大
アルマーニの名声はすぐに海を超え、アメリカにまで伝わりました。
バーニーズ・ニューヨークの社長フレッド・ブレスマンがジョルジオ・アルマーニを訪れ、バーニーズでのアルマーニの取扱を決めました。
1976年(アルマーニの創業から1年後)に、9万ドルを売上、その後6年で2400万ドルまで急成長します。
アメリカでは女性の職場進出が進み、女性のファッションに新しいスタイルが求められていたという背景もあります。
オフィスファッションとしてふさわしく、それでいてエレガントなアイテムという相反する要素を両立させたアルマーニのスタイルは女性の魅力を引き立たせるものだったからです。
アルマーニはすでに国際的なスターになっていました。
1978年にはアカデミー主演女優賞を受賞したダイアナ・キートンがアルマーニのジャケットを着て舞台にあがります。
これは何よりもデザイナーとしての成功を表していたのです。
そして、リチャード・ギアが主演を務めた「アメリカン・ジゴロ」でアルマーニのファッションが映画の中のクローゼットに並び、その存在感をいかんなく発揮したのです。
顧客リストには、ダイアナ・ロス、ダスティン・ホフマン、ジャック・ニコルソン、ローレン・バコールなど世界のセレブが並ぶようになっていきました。
1979年にはデザイン界のオスカー賞とまでいわれるニーマン・マーカス賞を受賞しました。
この賞はイタリアではミッソーニやエミリオ・プッチなどわずか数人しか受賞したことのない栄誉ある賞で、設立からまだ4年のアルマーニが受賞したのです。
タイム誌の表紙を飾る歴史的快挙を達成
日本でもバブルの時代でしたが、アメリカやヨーロッパにおいても1980年代に入ると世の中は混沌としていきます。
ディスコが流行り、派手なファッションが好まれ、金こそが全ての時代に突入するのです。
ショッキングピンクやオレンジのようなスーツ、とにかくブランド物が流行り、肩パッドが女性のアピールにもなった時です。
この頃にはアルマーニの最大のライバルであるジャンニ・ヴェルサーチやエンリコ・コベリなどのファッションがもてはやされていました。
しかし、こんな時代においてもアルマーニは自らの姿勢を崩さず、着心地のいい服を作り続けます。
こうした姿勢がとてもよい結果を招きます。
脚本家ジェイ・コックスがタイム誌の映画・音楽評論家をしていたときに偶然アルマーニの服を目に留めたことから始まりました。
ジェイ・コックスがこのアルマーニという人物の記事を書こうとイタリアまで赴き、なんとタイム誌の表紙を飾ることになったのです。
このタイム誌の表紙に載るというのは想像以上のもので、ヨーロッパのクチュリエとしてはこれまでにもニュールックのクリスチャン・ディオールしかいませんでした。
このタイム誌への掲載から直営店の展開も開始し、その年にアルマーニの売上高は3倍へと跳ね上がったのです。
最大の苦境「パートナーの死」を乗り越えた先
ジョルジオ・アルマーニの立ち上げから10年後の1985年、公私ともにパートナーであり、立ち上げからジョルジオ・アルマーニの経営面を一手に引き受けていたセルジオ・ガレオッティがエイズにより息を引き取りました。
このガレオッティの死というのはジョルジオ・アルマーニにとって想像以上の痛手となり、家族経営的なジョルジオ・アルマーニの屋台骨となっていたガレオッティを失うということはジョルジオ・アルマーニというブランドの空中分解を意味していたのです。
ガレッティの死後、多くの重要なスタッフがアルマーニを去っていきました。
ただ、ジョルジオ・アルマーニという人間のすごいところは、このガレオッティの抜けた穴を自分で埋めたということなのです。
これまでクリエイティブな部分だけに専念していたアルマーニが、1年かけて自社の研究を行い経営まで掌握してしまいました。
一瞬は崩壊の危機に陥ったブランドですが、すぐに急成長路線を取り戻し、さらに売上を伸ばし続けました。
また、同時にアルマーニグループの再編成にも乗り出し、これまで生産は提携メーカーに依存していたのですが、そこからも脱却し自社生産にも乗り出したのです。
この頃から妹のロザンナや姪のシルヴァーナもブランドの中で大きな役割を示すようになってきます。
もはやアルマーニは伝説的な人物となり、数々の賞を受賞します。
フランチェスコ・コッシーガ大統領から授与されたイタリア共和国功労勲章グランデ・ウッフィチャーレをはじめ、映画「アンタッチャブル」によるアカデミー衣装デザイン賞のノミネート、スペインのクリストバル・バレンシアガ賞の受賞など次々と栄誉を手にします。
激動の時代も無風状態での成長を続ける
激動の80年代を乗り越えた先には新しい時代の到来がありました。
ラグジュアリーファッションの落ち込みが顕著になり、明らかに時代の転換点が訪れました。
クリスチャン・ラクロワのような新しいスターを探し求める傾向にあり、アルマーニはすでに最先端と呼ばれるようなブランドではなくなっていましたが、自身のタイムレスなスタイルを貫き、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートから名誉博士号を送られます。
ハリウッドスターがアルマーニを好む傾向はますます強まり、オスカー賞の授賞式などはアルマーニ一色になっていき、その様子は「アルマーニ賞」と揶揄されるほどでした。
1990年代にもっとも活気のあった市場はアジアで1997年には日本を訪れ、熱烈な歓迎を受けます。
また中国にも進出を果たすのです。
1998年にはタイム誌による「今世紀の100人」に選ばれます。
この中には建築界の巨匠ル・コルビュジエやピカソ、ビートルズやチャップリンといった錚々たる顔ぶれが並んでいました。
この時代には従業員は2500人を超え、成功の頂点にいました。
販売網は世界中に広がり、ジョルジオ・アルマーニ、エンポリオ・アルマーニの直営店だけでも200店舗近い規模になりました。
取扱のアイテムもメンズ、レディース、ジュニア、ジーンズ、アンダーウェア、スイムウェア、スポーツウェア、アクセサリー、アイウェア、フレグランス、ネクタイ、時計、シューズなど多岐にわたります。
唯一おもしろいのは、殆どのラグジュアリーブランドで主力となっているバッグや財布などのレザーアイテムをほとんど販売していないということです。
あくまで主力製品は服というのがアルマーニのこだわりです。
ときはLVMH(ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシー)やPPR(ピノー・プランタン・ルドゥート)、プラダグループなどのラグジュアリーブランドの買収合戦の真っ只中でしたが、アルマーニはこうした荒波を無風状態で駆け抜けます。
20世紀で最も成功したデザイナー「ジョルジオ・アルマーニ」
(出典:http://www.vogue.co.jp/)
ここまでくるとアルマーニはもはや伝記上の人物のようになってきます。
アルマーニの映画界への貢献を讃え、イタリアのオスカー賞とされうダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞を受賞し、ニューヨークのグッゲンハイム美術館ではアルマーニの服500点以上を収めた回顧展が開かれました。
有名美術館が一ファッションデザイナーの回顧展を開くというのはまさに前代未聞のことだったのです。
このジョルジオ・アルマーニ展は、その後スペインのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ、イタリアではローマ国立博物館、東京やロサンゼルス、上海、ミラノと世界を駆け巡りました。
また、2001年に誕生したアルマーニ・テアトロをオープンします。
これははまさにアルマーニを象徴するような建物で、デザインは日本を代表する建築家 安藤忠雄。
無機質な建物は冷たすぎると言われることもあるが、これこそがアルマーニの求める機能性と純粋なスタイルにマッチしているのです。
さらに2005年には世間をあっと驚かせることをしました。
なんとアルマーニのオートクチュールラインとなる「アルマーニ プリヴェ」を発表したのです。
さらに2006年にはメンズのオーダーメイドライン「ハンド・メイド・トゥ・メジャー」の発表と次々と新しい試みを行います。
オートクチュールラインから、ジョルジオ・アルマーニ、そしてエンポリオ・アルマーニ、またアルマーニ・エクスチェンジといったカジュアルラインまで、価格帯に応じたスタイルを提案し、ラグジュアリーファッショングループでは屈指の経営基盤を誇るブランドへと成長したアルマーニ。
ワンストップな消費者体験という思想から2018年からこれまでアルマーニ・ジーンズ、アルマーニ・コッレツィオー二はエンポリオに統合されることになりました。
時代の変化に柔軟に対応するアルマーニらしい戦略と言えるでしょう。
アルマーニの後任はどうなるのか?
ブランドの行く末はどうなるのか?
まだまだ興味のつきないジョルジオ・アルマーニの今後も注目です。
この記事を監修しているのは?
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