Salvatore Ferragamo サルヴァトーレ・フェラガモ
フェラガモの歴史「苦難を乗り越えた先の栄光」
ブランドとしてのフェラガモの歴史
フェラガモというブランドの歴史は、偉大なデザイナーであり、ビジネスマンであり、そして新しいスタイルを作り続けてきたサルヴァトーレ・フェラガモという人物の歴史そのものといってもいいくらいです。
サルヴァトーレ・フェラガモの人物像に関しては、『偉大なる靴職人 サルヴァトーレ・フェラガモ』をご覧頂くとして、ここではサルヴァトーレ・フェラガモというブランドが出来てから、どういった経緯で成長を遂げてきたのか、また成長の中での紆余曲折、サルヴァトーレ・フェラガモの死後のブランドの発展も含めて見ていきたいと思います。
手作りにこだわるがための再出発
(出典:http://www.ferragamo.com/)
サルヴァトーレ・フェラガモのブランドの創立は1927年ですが、この以前からサルヴァトーレは靴職人として非常に有名になっていました。
すでに彼はハリウッドに靴の店をオープンしており、フェラガモの作る靴は完璧に足にフィットする靴として映画関係者をはじめ、世界中のセレブを魅了していたのです。
ハリウッドですでに輝かしい実績を収めていた彼が、なぜイタリアに戻ってわざわざブランドをオープンするに至ったのか?
それは、サルヴァトーレが手作りの靴にこだわりを持っていたからなのです。
ハリウッドでは、兄弟の勧めもあり機械での生産を行っていました。
機械での生産とはいえ、サルヴァトーレの作った木型に沿って作り上げられる靴なので履き心地という点では他のブランドで製造された靴は比べ物にならないほど良いできだったのですが、それでも完璧を追い求めるサルヴァトーレはどうしても許せなかったのです。
彼は、イタリアで優秀な靴職人を大量に集めることで、機械式生産に負けないほどの大量生産を手作りによって実現し、最高の靴を世界に届けるという夢のために立ち上がりました。
こうして1927年に現在のサルヴァトーレ・フェラガモとなる会社が設立されました。
順風満帆に見えた船出だったが・・・
サルバトーレのイタリアでの手作業による靴を作るというニュースは、あっという間に広まり上流階級の女性や映画スターたちから注文が殺到しました。
アメリカの大手百貨店などのバイヤーもこぞってサルバトーレの靴を販売したいという意向を示したのです。
これはイタリアでも同様でサルバトーレ凱旋のニュースで大変に歓迎されたのです。
しかし、落とし穴は待っていました。
大々的な歓迎をよそに靴作りの現場での対応は冷たいものでした。
ナポリ、ヴェローナ、トリノ、ミラノ、ヴィネツィアどこへ行ってもサルバトーレの計画に賛同してくれる耳を傾けてくれる職人おらず、途方にくれることになったのです。
そして、最後に訪れたフィレンツェでやっとこれまでに比べると理解してくれる雰囲気を感じ、60人の職人をイタリア中から高待遇でかき集め、なんとかフェラガモ独自の製法での手作りの靴作りを開始したのです。
こうして出来上がったオリジナルシューズのサンプルを持ち、アメリカに戻ったサルバトーレはニューヨークの靴専門チェーンである「I・ミラー&サンズ」の社長ジョージ・ミラーにまずはサンプルを見せました。
しかし、評価は散々なもので「くだらないもの」と一蹴されてしまいます。
絶望に打ちひしがれたサルバトーレですが、諦めずにサックス・フィフス・アベニューのマニュエル・ガートンに電話し、サンプルを見せました。
ガートンはそのサンプルを見て大変気に入り、その日のうちに何千ドルもの注文書を作ってしまったほどでした。
さらにマーシャル・フィールドとも契約を結ぶことに成功し、ジョージ・ミラーからの手痛い一発を食らった24時間後にはアメリカの大手2社との契約を結んでしまいました。
一度は絶望に底にまで叩き落とされたのですが、それにはめげずになんとか踏みとどまったのです。
困難を乗り越えると、さらに困難が押し寄せる
(出典:http://www.ferragamo.com/)
イタリアでの手作り靴の契約を取り、最高のスタートをきったと思われた矢先に起こっていたことは想像を超えるものでした。
ひとつはカリフォルニアに残していた会社は全く回っておらず、運転資金も底をつきかけ、出資者が怒って撤退しようとしている事態でした。
なんとかサルバトーレが説得してまわることに成功し、ひとまず窮地を脱出したように見えました。
ふたつめの困難はフィレンツェに戻ってからでした。
60人いた職人は半分ほどに減っており、給料を払っていたのに彼らは何もしていなかったのです。
腕利きの職人を集めたばっかりに彼らは自分たちのやり方に固執し、サルバトーレのやり方に不満を持ち、それぞれ別の作り方をしてしまうので2足として同じ靴が作れる状態ではなかったのです。
こんな状態ではとても出荷など出来ないと追い詰められたサルバトーレは残った職人も全て解雇しました。
ここで起死回生のアイデアとして思いついたのが、靴職人を目指す修行中の少年や学生を集めるということでした。
わずか2~3日で30人ほどを集め、靴一足を1人に作らせるのではなく、いわゆる流れ作業として工程に分断して作業に当たらせる方式をとったのです。
ここから1ヶ月ほどで製品が出荷できる状態にまでなり、アメリカに続き、ロンドン、パリ、ベルリン、アムステルダムといった国々にも輸出出来るようになっていったのです。
母国であるイタリアでは靴は販売せず、輸出に頼る形になっていました。
これがのちのち大きな打撃を被ることになるとはこのときは思いもしなかったのです。
実は破産をしていたフェラガモ
1933年フェラガモは破産しました。
その理由は、フェレンツェで靴作りの指導を行う必要があったため、サルバトーレはアメリカにはなかなか戻れませんでした。カリフォルアでは販売をしてもフィレンツェには送金せずに会社の資金繰りはどんどん悪化していったのです。
さらに1929年の不況にニューヨークを起点にした世界恐慌によって、ポンド、そしてドルが大幅に価値を失い、ハリウッドの店はタダ同然で売却することになり、イタリアでの販売を行わずに輸出に頼っていたことによってその打撃は深刻なものとなりました。
ついには金融業者からの借金をし、サルバトーレの個人名義、家族名義などありとあらゆる借金をし、その利息は年率80%という法外なものでした。
事業は伸びており、靴も売れている。しかし再建を行使された瞬間にサルバトーレ・フェラガモは破産したのです。
どん底の底の底から這い上がる
(出典:http://www.ferragamo.com/)
サルバトーレ・フェラガモは破産を機に自分を見つめなおします。
ここで気づいたことがフェラガモを一介の靴職人ではなく、ビジネスマンとして大きく飛躍させることになるのです。
フェラガモは手作りに固執し、機械を使った生産拡大を頑なに拒否してきました。
さらに利益は基本的には再投資に回し、投資家への配当などを考えていなかった。そうしたビジネスの原理原則を理解していないがために信用を得ることに失敗していたのです。
ここで復活に向けた決意をします。
・フェラガモの靴、フェラガモの店、代理店を主な先進国に広めること
・フェラガモ・オリジナルの靴には一切機械を使わないこと
・借金を全て返済する、今後は外部の資金には頼らない
・手作りの注文製造を完全にやめることは2度としない
・販売を輸出に頼ることはせず、少なくとも半分は自国で販売する
・信用を得るために必要であれば財産を手に入れよう
ここで直ぐに行動を起こすのが、サルバトーレのすごいところで過去に靴作りに訪れてくれた夫人に靴を買ってくれるように直談判に行きました。これに応じてもらい、早速靴作りを再開します。
工場を閉鎖されてからわずか2日後の出来事なのです。
こうした貴族階級の夫人にその友達を紹介してもらうというやり方で着実に注文を増やしていきました。
数年のうちにみるみると事業は回復し、2年後にはわずかながらでも輸出も再開できるようになり、国内での販売もうなぎ登りになっていったのです。
世界中の王侯貴族に愛されるブランドに
(出典:http://www.ferragamo.com/)
エチオピア侵攻による経済制裁を新しいアイデアで乗り越え、まだ破産から5年程度しか経っていない1939年頃にはアメリカ、イギリス、オランダ、フランス、スイス、ドイツ、チェコスロバキア、カナダ、オーストラリアといった世界の主要な先進国で売られるようになっていました。
イタリアではフィレンツェ以外にもローマ、ミラノ、トリノ、ジェノバ、ヴェネツィア、ナポリ、リド、ビアレッジョにもサロンを開くほどになりました。
ハリウッドで店を構えていた時代から世界のセレブを魅了していたフェラガモの靴ですが、この時には各国の上流階級はほとんどフェラガモの顧客となっていました。
イタリアのエレナ王妃、ベルギーのマリア・ホセ王女、ムッソリーニなどなど本当に世界の名だたる人物がフェラガモのサロンを訪れていたのです。
この理由は簡単でフェラガモのフィッテイングにあったのです。
完璧に足にあった靴を履くことで、足を癒やすだけではなく、精神面のアンテイや骨格の歪みまでも治してしまうというまさに魔法のような靴だったからです。.
時代の流れに合わせるとき「機械化」
(出典:http://www.ferragamo.com/)
第2次世界対戦では、一時的に開店休業状態に追い込まれるも、この時代は他のどのブランドも似たような状況でした。その後に徐々に物資不足から本来の状態に戻していき、1950年には従業員700人、一日に350足の靴を手作り出来るようになっていました。
破産したときに誓った理を守りぬき、その夢を現実のものにしていたのです。
しかし時代の流れは早く、サルヴァトーレ自身がこのままではやがてフェラガモというブランドは終演を迎えるかもしれないという危機感を覚えていたのです。
そして行ったこと。
それはフェラガモの靴の機械生産です。
破産した時にたてた理を自ら破ることを決意したのです。
それにはいくつか理由があり、手工芸の靴作りは働き手のニーズにあっていないということ。
機械より手作りの靴がいいと思わせるために高い賃金を払えば、靴の価格も上がり、金持ちが減っている時代に合わないこと。
ハリウッド時代には満足のいく結果が得られたかった機械生産だが、1950年となった現在では受け入れることが可能かもしれないということ。
こうした時代背景によって機械を使った靴作りをスタートさせ、60%の作業は手作業、残り40%の簡単な作業を機械という人と機械の分業によって機械生産をスタートさせたのです。
この機械生産は「質」の面でも成功し、フェラガモ「デビュタント」が始まっていったのです。
計算された次の世代への継承
(出典:http://www.ferragamo.com/)
サルヴァトーレは、1960年にこの世を去りましたが、その死の前に将来のフェラガモ社の構想を練っており、あらゆる布石を打っていたのです。
長女のフィアンマには15歳の時に自身のアトリエで修行をさせ、職人たちとの交流をさせたことで靴および革製品のデザイン責任者となりました。
本人は学校に行きたがっていたのですが、結果としてフィアンマだけがサルヴァトーレから直接指導を受けたことで、その感性を引き継ぐことが出来たのです。
そして、次女のジョヴァンナは16歳でファッション専門学校に行かされ、1958年には最初のレディースコレクションを発表し、百貨店に専門コーナーが作られるなど大成功を収めました。
これもサルヴァトーレの構想で靴だけではなく総合ファッションブランドへとフェラガモを転身させるための布石だったのです。
妻のワンダにはサルヴァトーレが病気で引きこもりがちになった頃、たびたび代理で会社へ行かせ、自身に万が一のことがあった場合のことを考えて妻に会社を引き継がせる準備をしていました。
サルヴァトーレを慕っていた古い職人、社員たちも団結してワンダ夫人をバックアップしたこともあり、サルヴァトーレの死後も事業は問題なく拡大していったのです。
ある意味6人の子供にそれぞれの役割を与え、これまで見事にフェラガモを継続させたワンダ夫人というのもまた素晴らしい人物だったといえます。
そして現代へ
(出典:http://www.ferragamo.com/)
1965年には長女フィアンマによる初のハンドバッグコレクションが開始、1970年にはメンズシューズとウェアも展開を開始し、次男のレオナルドによって拡大していきます。
さらに3女フルヴィアによってシルクスカーフとタイがブランドを代表する製品として成長します。
今フェラガモを代表するシューズとなっている「ヴァラ」も1970年代にフィアンマによってデザインされたものです。
そして1998年にはルックス・オルテカとのアイウェアのライセンス契約を結びます。
2001年にはフェラガモ・パルファムを設立し、香水事業にも乗り出します。
2002年には初のスニーカーライン「Freedom」も発表します。
サルヴァトーレの夢をかなえるがごとく、総合ファッションブランドへの道を歩んでいきます。
デザイナーという点では、2000年の秋冬からエルメス、トラサルディなどで活躍したマーク・オディベがレディースデザインを手がけ、2003年の春夏からはアルマーニで経験を積んだグレエム・グレッグがデザイナーに就任しました。
その後グレエムが辞任したことで2007年よりプラダ、ランバンなどで活躍したクリスティーナ・オルティスがチーフ・デザイナーとなっています。
そして、2004年よりメンズデザインを手がけていたマッシミリアーノ・ジョルネッティが2010年よりクリエイティブ・ディレクターに就任しています。
しばらくはこの体制が続きましたが、2016年にマッシミリアーノ・ジョルネッティが退任したことで、ウイメンズはフルヴィオ・リゴーニ、メンズはギョーム・メイアンがデザイン・ディレクターに就任しました。
(出典:http://www.ferragamo.com/)
ウイメンズは翌年の2017年にはフルヴィオ・リゴーニが退任し、ポール・アンドリューがクリエイティブ・ディレクターに昇格しています。
メンズのデザイン・ディレクターであるギョーム・メイアンはポールの指揮下ですべての商品カテゴリーの開発をコーディネートするスタジオディレクターを兼任することになりました。
2019年からはポール・アンドリューがブランド全体の指揮を執り、フェラガモというブランドに大きな変化をもたらしましたが、2021年5月に惜しまれながらも退任しています。
こうしてサルヴァトーレの意思はその妻と子供に引き継がれ、新しいデザイナーによって伝統を継承しながらも現代のフェラガモスタイルに再解釈されていっているのです。
2011年にはイタリア証券取引所への株式上場も果たし、浮き沈みの激しいラグジュアリーブランド業界を華麗に生き抜いています。
この記事を監修しているのは?
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