Jimmy Choo ジミーチュウ
至高の靴職人 ジミー・チュウ
職人としてのジミーチュウ
(出典:http://en.wikipedia.org/)
ジミーチュウは、靴職人でありブランド「Jimmy Choo(ジミーチュウ)」の名前の由来ともなった人物です。
ジミーチュウ本人はブランドの立ち上げには関わっていましたが、実はジミーチュウブランドの中心を担う人物ではなかったというのが正しいかもしれません。
こう聞くと頭のなかで「???」と浮かぶ人が多いと思いますが、ブランドの設立はタマラ・イヤーダイとジミーチュウ、そしてタマラの父トム・イヤーダイが中心となったことは事実です。
しかし、職人肌のジミーチュウとプレタポルテとしてビジネスを志向するタマラ・イヤーダイとでは方向性が正反対で2人の関係はお世辞にもうまくいっていたとはいえませんでした。
ここではそんなジミーチュウという人物がどんな人物だったのかを、彼の生い立ち、そしてブランドの設立までのオートクチュールを中心に見てみたいと思います。
伝説の始まりはハックニーから
(出典:http://www.the-platform.org.uk/)
ジミーチュウはマレーシアのベナンに生まれ、父チュウ・キー・インはベナン屈指の靴職人として名前が知られた人物だ。
息子であるジミーもそんな父のもとで靴作りの修行に勤しみました。
そして、まだ10代だったジミーをロンドンの親戚のもとに送り、そこでスペインの皮革ブランドから名前がついたコードウェイナーズ・カレッジへと進むことになりました。
一度卒業してベナンに戻りましたが、さらに靴作り学ぶためにカレッジに戻りました。
そして二度目の卒業を迎える頃にコードウェイナーズに大変革の波が押し寄せます。
パトリック・コックスやジョン・ムーアといった後に有名になる生徒たちが独自のアイデアや構想を実現するための靴作りの技術を身につけたいと考えだしたのです。
彼らの頭の中は伝統よりもヴィヴィアン・ウエストウッドに代表されるようなパンキッシュなスタイルでそうした生徒たちが創造の場として見つけたのがロンドン・イーストエンドのハックニーでした。
このハックニーはお世辞にも綺麗な場所とは言えません。
はっきりいってとても汚い場所でハイブランドの商品が売られる場所からはかけ離れた場所です。
ただメトロポリタン・ホスピタルと呼ばれる建物は低賃貸料だったため、駆け出しのデザイナーや印刷業者など様々なビジネスのスタートアップの場となったのです。
ジミーもこんなハックニーに工房を構え、狭いスペースの中で靴作りに奮闘していました。
そして自身のブランドを「ラッキーシューズ」と名づけ、露店で自ら売っていたのです。
カスタムメイドが出来る貴重な靴職人
ハイエンドの靴作りというのはとても難しいのです。
靴というのは、アッパー、ヒール、インソールなど多くの部品を組み合わせて作るもので、最高級の靴となるとその素材も最高級の素材を扱うイタリアから輸入する必要があります。
しかし、ジミーのような少量しか生産できないデザイナーと取引してくれる業者などあるはずもありません。
しかし、ここで救いがあったのがメトロポリタン・ホスピタルのほど近くに工房を持っていたジーナ・シューズ。
ここには靴作りに必要な機材、そして希少な高級革が全てそろっていました。
また、創業者の息子であるカーダッシュ兄弟はイタリアの業者では取引すらしてもらえなかった小口での取引にも快く応じてくれたため、ジミーはジーナ・シューズから必要な素材を仕入れることが出来ました。
そして、メトロポリタン・ホスピタルで工房を開いていたようなコードウェイナーズの新世代たちは「ヴォーグ」などファッション誌のアシスタントたちとも意見交換するような交流関係を持っていたため、メトロポリタン・ホスピタルに美しいカスタムメイドの靴を作る職人がいるという噂はすぐに知れ渡ったのです。
ここでタマラ・イヤーダイとジミーチュウの出会いがあるわけですが、当時のロンドンで靴ブランドというと最も幅を利かせていたのはマノロ・ブラニクです。
ヴォーグに掲載するために必要な靴をマノロ・ブラニクがそのシーズンに生産していなければ、お手上げという状態でした。これを打破したのがジミーチュウの存在で必要な靴をジミーチュウに届け、カスタムメイドで作ってもらうということが可能になったのです。
そして、ヴォーグに掲載されるクレジットには当然ジミーチュウが作ったので、「Jimmy Choo」と入ります。
ファッション好きの読者がこれを見逃すはずがなく、しばらくすると小汚いハックニーの工房にヴォーグを見た読者が訪れるようになっていったのです。
ダイアナ妃との出会い
(出典:http://www.jimmychoo.jp/)
ジミーの工房には連日大勢のファッションセレブたちが列をなして押しかけていました。
ハックニーにベンツが止まっているという珍妙な光景が当たり前になっていったのです。
この頃に妻レベッカの姪にあたるサンドラ・チョイがロンドンにやってきてジミーの仕事を手伝うようになります。
サンドラ・チョイは後にジミーチュウのクリエイティブ・ディレクターとなる人物でブランド「ジミーチュウ」としては非常に重要な人物です。
ジミーチュウのオーダーメイドは、最初のフィッティングでつま先、ヒール、素材、バックルを選びます。
その後もう一度フィッティングを行い、3度目で最終フィッティングを行い、そこから2,~3週間で出来上がるという感じです。
クライアントの足に合わせて靴型から作っていくジミーの靴が魔法の靴と呼ばれるのはこうした入念なフィッティングがあってこそなのです。
そんな折、一本の電話がジミーの人生を変えることになります。
電話はケンジントン宮殿からでダイアナ妃がジミーが宮殿に足を運んでくれるかを確認してきたのです。
ジミーはダイアナ妃のために様々なカスタムシューズを作り上げ、2人はあっという間に意気投合しました。
ジミーチュウは、一気に英国王室御用達にまでなってしまったのです。
ビジネスとしての成功を目指して
(出典:http://www.jimmychoo.jp/)
ジミーチュウとしては、ダイアナ妃の御用達ともなり、世間的にも脚光を浴びる存在になりましたが、ビジネスとして考えるとまだまだうまく行っているとはいえませんでした。
ジミーがデザインした靴をプレタポルテとして売りだしたメトロポリタン・ホスピタルの仲間エリザベス・スチュアート・スミスやアニューシュカ・ヘンベルのビジネスの成功を目の当たりにしジミーは焦っていました。
そこに駆け出し時代から希少な素材を調達していたジーナ社からプレタポルテラインを立ち上げる計画を持ちかけられたのです。ここで初めてジミーチュウのプレタポルテラインがジーナ・ブティックに並ぶことになったのですが、長くは続きませんでした。
実はジミーチュウのプレタポルテは、今のジミーチュウが最初ではなかったのです。
ここで登場したのがリハビリ施設から復帰し、ジミーのプレタポルテラインを立ち上げるプランを練ってきたタマラ・イヤーダイです。
ここからジミーチュウの大躍進が始まっていくのです。
ジミーチュウというと今あるブランドを思い浮かべる人も多いと思います。
魔法の靴と呼ばれ、痛くないパンプスの革命とまで言われているジミーチュウですが本来的には靴職人ジミーチュウの作る靴こそが魔法の靴だったのかもしれませんね。
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ラグジュアリーブランド・ハイファッション調査部門
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